不遇の小説家の代表例?
【Zhener】今回紹介する小説家は蒲松齡(Pu Songling,1640-1715)です。彼は『 聊齋誌異(Liaozhai zhiyi/Strange Tales from a Chinese Studio)』の著者としてよく知られています。
【BaiNiang】私は彼の作品はよく翻案されていることを知っています。例えば徐克がつくった映画の『倩女幽魂(A Chinese Ghost Story)』とか。
【Zhener】そうですね。近世中国文学では彼がもっとも知られている。彼は馮夢龍よりも知られている。私は小説家としての実力が彼(松齡)の方が上とは思いませんが。
【BaiNiang】これについては後述します。
『聊齋誌異』の影響
【Zhener】影響を受けた小説家は多い。グルメで知られる隨園先生(袁枚/Yuan Mei)は肯定的に評価した。それは『子不語(正確には『新齊諧』)』から明らかだ。
【BaiNiang】一方『閲微草堂筆記』の紀昀(Ji Yun)は批判的に評価していました。自分よりも文才はあることを認めつつも、正統なスタイルではないと。清帝国時代の短編小説集の著者としてはこの三者は特に名前が強く残っています。その中でも蒲松齡が知名度・評価は頭抜けているのですが。
【Zhener】映画の『倩女幽魂』王祖賢はまだ20歳前なんだよね。しかし張国栄は30歳というのがなんとも。彼は東アジア系の割とよく見る男前なのですが。
【BaiNiang】彼女のもっとも知られる役です。しかし私としては複雑です。
松齡と馮夢龍との差
【Zhener】しかし私たちの立場においては、小説家としては馮夢龍の方がスケールは上かな。『聊齋誌異』はいわゆる「逃避の文学」として終わったような気がする。
【BaiNiang】それは夢龍との生きた時代の差によると私は考えます。二人とも科挙(上級国家公務員採用試験)には及第しなかった。しかし夢龍はそれでも人生において成功したが、松齡はそうとは言えなかった。
【Zhener】科挙はもうこの時代にはとてつもなく難しくなっていた。松齡が及第できなかったとしても仕方がない。それに科挙に耐えられるような図太い人物にはあんな繊細な小説は書けないよ。
【BaiNiang】両者に戻ります。夢龍は生きた時代がよかった。彼の生きた明帝国末期は出版で生活できましたから。しかし松齡が生きた清帝国前期の山東省ではそれはできなかった。もし彼が生きる時と場所を選べたらどうだったのだろうか。
【Zhener】姐姐、それは成功するには運も必要、ということですか?
【BaiNiang】そうです。私たち姉妹もそれはよく知っているでしょう、真児?
【Zhener】姐姐が謙虚な態度なのはそれもあるんだよな。でも世間の奴らは「自分の成功は自分のおかげ、失敗は自分以外の誰かのせい」と考えたがる。
【BaiNiang】そういう考え方を持ってはいけないのですが、それはほとんどの方にとって難しいのでしょう。感受性の強い人物にしか伝わらないのが私たちにとっても悩みです。
【Zhener】ペンで食べていきたい輩は多い。しかしその辺はからっきしって奴が多すぎるしな。
松齡は決定的に運がなかった
【BaiNiang】聊斎先生と科挙についてですが、もう少しあります。彼が科挙に及第できなかった理由は幾つもあるのですが、その中で有力なものを。彼は科挙の問題である”八股文”が大の苦手だった。八股文は物凄く批判も多いのです。批判者の代表的人物がGu Yanwu(顧炎武, 1613-1682)さんですね。
【Zhener】姐姐、確か八股文って実質科挙専用の問題なんだよね?
【BaiNiang】そうです。そしてそれと相性が極端に悪かった。次に『聊斎志異』を読めばわかるのですが松齡は繊細で神経質、何より感受性の豊かな人物だった。そんな彼が何日間も個室に閉じ込められて文章を書く試験に耐えられ、そして実力を存分に発揮できるのか。試験がそういうものとはいえ。
【Zhener】確かに、相性が悪そうだ。
【BaiNiang】最後に、決定的に運がなかった。元々松齡の文才を見抜けるだけの人物がどれだけいたか。彼が最終的に清帝国時代最大の短編小説家になったことを考えると、難しかったでしょうね。そんな彼の才能を見抜けた例外的な試験官がいました。Shi Runzhang(施閏章, 1618-1683)という当時を代表する詩人です。彼は松齡の詩を大変評価しました。松齡は順治15年(1658)に科挙を初めて受験します。県・府・道の三試験全て首席合格で閏章にも激賞されました。しかしその2年後(1660)の3月にに閏章は試験官を辞任・帰郷。秋に松齡は郷試を受験するも合格できなかった。もし閏章がもう少し試験官を続けていたら・・・。